An interview and studio visit with Duncan Swann

December 06, 2025 - 11:00 AM

Q&A インフィニティシティー
1. 東京に移ってから、現代の都市生活のどんな点に最も惹かれていますか?また、特に刺激を受ける街や人々はいますか?

東京は、これまで暮らしてきたどの都市ともまったく違います。巨大な都市でありながら、小さい魅力的な街が連続し、ひとつの都市を形づくっている。その独特の構造にまず惹かれました。学芸大学や中目黒、自由が丘のように、夜になると細い通りに飲食店が並び、独特な雰囲気が生まれるエリアが好きです。こうしたローカルで活気のある場所が、東京には本当にたくさんあります。

これほど大きな都市なのに、驚くほど静かで、他の大都市と比べると人々も穏やかです。そのおかげで、とても暮らしやすい街だと感じています。

絵に登場させる人物を探すときは、純粋な好奇心が出発点です。人の姿に目を向け始めると、誰もがそれぞれ興味深く見えてきます。私の場合は、立ち方や視線の向け方、つまり“その人が自分の世界に没入している瞬間”に特に惹かれます。ポーズをとった写真よりも、自然な一瞬のほうがずっと魅力的です。

作品に心を奪われている瞬間や、ふと何かに引き寄せられた一秒を捉えたくて、東京国立博物館でよく撮影をします。原宿も多様な人が行き交うので、とても魅力的な場所ですね。誰かに惹かれて撮った写真の中で、思いがけず別の人物が同じくらいの強い存在感を放っていることもよくあります。

写真を選ぶ際に厳密なルールはありません。
何千枚もの写真の中から、その作品に登場する他の人物と響き合いそうだと感じたものを、その都度選んでいます。ただ、作品に登場する人々が“街のどこにでもいるような存在”として見えることは大切にしています。躍動感があったり、誰かを指さしていたりと動きが強い人物もいる一方で、別の人物は、ただ足をそっと置いた角度だけで心をつかんでくることもあります。


2. 絵に登場する人々について物語を作ることはありますか?制作中に彼らの人生を想像することはありますか?

物語を作るかどうかで言えば、半分は「はい」で半分は「いいえ」です。明確なストーリーを設定することはありませんが、人物同士のあいだに生まれる関係性は意図的に構築しています。それぞれがまったく別の人生を生きる個人として存在していると想像しつつ、グリッドの下の人物を見下ろしているように配置したり、誰かを指さしていたり、あるいはキャンバスの外側を見つめている人物を入れたりします。

人物の下に書かれた番号は、一見すると選抜や記録のようにも見えますが、彼らが同じ出来事の参加者というわけではありません。むしろ、鑑賞者が自分の物語を自由に読み取れる余白を残したいと思っています。もし作品に共通する大きな物語があるとすれば、それは「人生」そのものです。

人物を描くとき、私はいつも彼らに責任のようなもの、そして共感やいたわりに近い気持ちを抱きます。だから、丸をつけたり線で消したりする行為は簡単ではありませんし、決して軽い気持ちでやることもありません。でも、私たち全員が社会や他者の判断にさらされながら生きているのも事実だと思います。作品中の“丸”や“印”は、国家や面接官、入試の審査員、空港の職員、あるいは神や運命のような存在が下す判断にも見えるかもしれませんね。

現実でも、私たちは日常の中で他者を判断し、ときにはまったく的外れの印象を抱くことがあります。都市に生きる私たちは、同じ空間を共有し、同じ電車に乗り、すれ違い、感情や夢、恐れをどこかで分かち合いながら生きています。無数の小さな関係が積み重なり、その多くは気づかぬまま、私たちの人生を形づくっています。

 

3. 絵を見ていると「描かれている本人は、そのことを知る日は来るのだろうか?」と想像してしまったり、気づかれないまま“ある瞬間”を切り取られた彼らが、どんな気持ちでそこにいたのか考えてしまいます。鑑賞者に、どんな感情や問いを持ち帰ってほしいと思っていますか?

このシリーズのような絵を描き始めたのは、日本に来るよりずっと前です。ただ、日本に来てからは北斎の本——とりわけ『富嶽百景』や漫画絵本——をたくさん買い、その飽きることのない魅力に惹かれ続けています。彼の人々への眼差し、その根底にある深い愛情と喜びには本当に心を打たれます。あの絵には“魔法”のような力があるのではないでしょうか。

北斎は自分のまわりの世界や、そこに暮らす人々を驚くほど丁寧に記録しました。その一つひとつが本当に面白い。私も、鑑賞者が絵を見たときに、“時間を超えた存在感”と“いま確かに生きている瞬間”の両方を感じ取ってくれたら、と願っています。絵の中の人物を、自分とどこかでつながる存在として受け取ってくれると嬉しいです。

私が使うイメージの多くは、都市の古い写真のアーカイブや、博物館の肖像写真、書籍の図版などから来ています。それらを重ね合わせて、「この街で今生きる人、かつて生きていた人、そのすべて」を描こうとしています。もし可能なら、本当に“全員”を描きたいくらいです。

鑑賞者自身は絵の中にいないかもしれません。でも「いてもおかしくない」。絵の中の人物を見たことがないかもしれません。でも「見たことがあるようにも思える」。作品のタイトルに友人や家族にゆかりのある名前を使っているのもそのためです。京子や圭介、由紀子といった名前をつけることで、実際に絵に登場していなくても、「そこにいても不思議ではない」と感じられるようにしたいんです。巨大な都市と個人の物語、その両方の対比でもあります。

私が願っているのは、鑑賞者が絵を見終えたあと、「思いがけず心に触れるものがあった」と感じてくれること。その絵がどこかで響き合う存在になってくれることです。

私にとって制作は、世界を理解し、意味を探すための行為でもありますが、同時に“問題解決”の積み重ねでもあります。色や線のバランスを探り、作品全体のエネルギーを保ち、誠実さを損なわないように組み立てていく。知識を教えようとは思っていません。絵は題材を超えて、見る人を別の場所へ連れていくべきだと思っています。私にとって制作とは、形を組み合わせ、色や線の重さを比べながら“建築する”ような作業です。鑑賞者が絵に物語を感じる一方で、私には“物質と構造の積み重ね”そのものがアイデアになっていきます。

4. 作品のスタイルや色調、雰囲気から、まるで100年前の光景を覗き込んでいるような不思議な空気があります。なぜ、このような表現を選んでいるのでしょうか?

人物は、とてもシンプルに描いています。細部や似姿にこだわりすぎず、あえて素早く筆を置くこともあります。表現したいのは、正確な再現ではなく“その人らしい気配"です。そのため、ほとんどの人物は本人だと分からないかもしれませんが、その人のエッセンスが少しでも残っていれば十分だと思っています。

古いセピア写真や、ダゲレオタイプの深い青や紫の色調には昔から惹かれてきました。そこに写る人々は、まるで時間を越えてこちらを見つめているようで、写真表面の擦れや揺らぎがイメージの意味を変えてしまう。そうしたところに魅力を感じます。

だから、絵にも意図的に“ノイズ”を残しています。絵具のにじみが雲や埃のように見えたり、ときにはMRIの断片のように見えることもあります。そんな、ほとんど“目に見えないレベルのゆらぎ”がとても好きなんです。

また、古いコピーの端のずれや、テレビ画面のホワイトノイズ、地震計の波形に、砂漠の塵、病院のモニターの線。

そうした“世界のもっと根源的な情報”を想起させる要素にも強く惹かれます。インクをこぼしたときにできるシミの形も同じで、人物が立つ「背景」には意図的に偶然性を残しています。こうした表面の情報が重なり合うことで、鑑賞者が“時間を遡るような感覚”が生まれるのだと思います。

ただ、私が求めているのは単に“古く見える絵”ではありません。“時間を超えるようなイメージ”、時には“未来から来たように見える感覚”にこそ、より魅力を感じています。

5. あなたの作品には、過去・現在・未来が同時に存在するような時間感覚があります。制作に向かうとき、着想は記憶、未来のイメージ、現在の出来事など、どこから始まるのでしょうか?

率直に言うと、そのすべてです。スタジオではひとりで過ごす時間が長いため、ポッドキャストを聞いたり、本を読んだりしながら、さまざまな考えが自然と混ざり合っていきます。 人物をグリッド状に配置する絵を描き始めたきっかけは、ドイツの玩具博物館での体験でした。模型用の小さな鉄道作業員の人形が、値段とともに箱の中でグリッド状に並べられ、腰や首の部分でボードに括りつけられていました。それは作品ではなく、ただの陳列方法だったのですが、その展示を白黒で露出オーバー気味に撮影すると、背景がほとんど消え、不思議なほど強い印象が残ったのです。どこか懐かしい一方で、未来から来たようにも感じられ、まるで時間の外側にあるようでした。その感覚が出発点になり、私はあの印象を何度も描き直してきたのだと思います。

最近は、物理学者カルロ・ロヴェッリのポッドキャストもよく聞いています。彼によれば、重力という制約がなければ、宇宙には過去も未来も存在しない。時間とは人間が生きるために便宜的に作った概念にすぎない。かつて“地球は平らだ”という認識が観測から生まれた近似だったように、“時間”もまた近似であり、とても相対的なものだと。

そう考えると、現在の人物も20年前の人物も100年前の人物も、同じ画面に同時に存在することは、むしろ物理法則に近いのかもしれません。そして私たちは無意識のうちにそれを“どこか理解できる”からこそ、この構図に惹かれるのだと思います。

 

6. 撮影の過程で、最も予想外だったり、不思議だと感じた瞬間はありますか?

“明らかな不思議な出来事”があったかどうかは分かりません。私は街を歩きながら写真を撮り続けていますが、その場では何を捉えたのか分からないことが多いんです。「この人は本当に素敵だ」と思って撮ったつもりが、後で見返すと写っていなかった、ということもしょっちゅうあります。そんなときは、まるでその人が“撮影セットからふっと抜け出した”ような、不思議な惜しさが残ります。同じ瞬間は二度と訪れないと分かっているからです。

東京に限らず、どの街にも面白い人たちはたくさんいます。後で写真の中に予想外に美しい瞬間が残っていることもありますが、そのときはただ「人が人としてそこにいた」だけで、撮った本人も全く気づいていなかったということがよくあります。

イタリアでのこともひとつ覚えています。カフェで通りを撮っていたとき、道を歩いていたハトの真上から、別のハトがフンを落としたんです。直撃されたハトは本当に打ちのめされたようで、まるで世界の法則がひっくり返ったような顔をしていました。その表情の深刻さがあまりにも印象的で、笑うに笑えない不思議な光景でした。

7. 自分自身を描いたことはありますか?それとも、ご自身の感情や心境を、作品に登場する人々へ投影することの方が多いのでしょうか?

数年前に、小さな鳥で顔の一部を覆った自画像を描いたことはあります。ただ、基本的には自分より他者に興味があります。自分が自然にふるまっている瞬間を、自分自身では観察できないからです。

自分の感情を意図的に絵に込めることはしていませんが、結果として滲み出てしまう部分はあると思います。多くのアーティストは自分と作品を切り離すと言いますが、私は完全にはそうできていないかもしれません。長い時間をかけて絵の表面に色を重ねるあいだ、いろいろなことを考えています。その無意識の層が作品に染み込んでいくのだと思います。

作品の良し悪しは、大胆な線や分かりやすいモチーフだけで決まるものではありません。むしろ、もっと本能的で、時間をかけて少しずつ立ち上がってくる“空気”や“トーン”のようなものに宿ることが多いのです。そして、うまくいったと感じる瞬間には、まるで絵そのものが自分で形を整えていったかのような、不思議な感覚が生まれます。

そういう意味で、どの作品も私自身を描いたわけではありませんが、どの作品にも私がどこかに存在しているーそんな感覚があります。

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